プライド
先日、大相撲11月場所が大関貴景勝が優勝して終わりました。貴景勝と決定戦を戦ったのが小結照ノ富士です。11月場所ではとても力強い相撲を取り、最後まで優勝争いをしました。
この力士は優勝経験もあり、大関にまでなりましたが怪我と病気のために大関から陥落し、序二段にまで落ちたのです。そしてようやく小結まで上がってきました。
序二段と言えば大相撲の下から二番目の地位。その序二段からの再スタートで難しかったことを聞かれて、照ノ富士は「大関だったというプライドを捨てること」と答えています。
私も同じように、自分のプライドに悩まされたことがあります。
40代半ばで初めて情緒特別支援学級を担任しました。3人の子どもたちを担任したのですが、その中の一人の子どものお母さんが、お迎えの時などに教室の様子を見て、私にアドバイスをくださるのです。こんな時はこうしたらいいですよ・・・と。正直言って、「えっ」と思いました。自分は情緒特別支援学級の担任が初めてとはいえ、教育のプロです。その方の話をにこやかに聞いてはいましたが、心の中はこの「教育のプロ」というプライドがうずいていました。だから最初は素直に聞けなかったのです。
でも、そのころ初めての体験ばかりで、指導がなかなかうまくいかず悩んでいました。それで、自分の「教育のプロ」としてのプライドをぐっと押し込めて、そのお母さんのアドバイスを実践してみました。すると・・・うまくいくのです。
それもそのはずです。そのお母さんはご自分のお子さんを育てるために、深く学ばれて実践されてきたのです。「親の会」の役員の経験もあったのです。私なんかよりよっぽど特別支援教育に詳しい方だったのです。
ちっぽけなプライドでもそれを捨てるのは、難しいものです。でも、捨てることができたときに、手に入るもの、見えてくる景色があるのだなあ・・と思いました。
そういえば聖書にも、プライドを捨てることができたために重い病気が癒やされた人がいます。ナアマン将軍です。アラム人のこの将軍は勇士でしたが、ツァラアトという重い皮膚病にかかっていました。その病気を治してもらうために、イスラエルの預言者エリシャの所に行きます。(預言者というのは、神様の言葉を人々に伝える人です)エリシャは将軍に会いもせずに、ヨルダン川で7回体を洗うように伝えます。すると、将軍は怒って帰って行こうとするのです。アラムの王様に重んじられていた将軍としてのプライドが傷ついたのです。しかし、部下にいさめられて言われたとおりにします。すると、ツァラアトが癒やされて「幼子のからだのように」なったのです。プライドを捨てて、素晴らしいものを手に入れたのです。
でも、この将軍よりももっと大きなプライドを捨てたのは、イエス・キリストですよね。神としてのプライドを捨てたのですから。
生け花クラブ~~創造する力~~
小学校でもクラブ活動はあります。
私は2回ほど「生け花クラブ」を担当したことがあります。と言っても、私が指導するのではなく、外部から先生をお呼びします。
生け花の流派によっても違うのでしょうが、外部講師の先生方によって、指導の仕方が違うな、と思いました。ある先生は、最初に生け方を説明したり、お手本を見せたりしてから、子どもたちに生けさせます。ある先生は最初から子どもたちに自由に生けさせて、一人一人にアドバイスをする、というやり方でした。正反対の指導方法でしたが、不思議な事にどちらの指導の仕方でも、子どもたちの作品に1つとして同じものは無いのです。
誰かの作品のそっくりまねをする子はいません。それぞれが自分の作品を作り上げています。子どもたちの個性あふれる作品を見て、私はうれしくなって写真をたくさん撮りました。
神様は、天と地を創造されましたが、もちろん私たち人間も造られました。そのとき「ご自身のかたちとして」創造されたのです。これは、手と足が2本あって・・・という見た目のことではありません。神様と似た性質を持つ者として造られたのです。
私は、人間がいろいろな物を作り出したり、工夫をしたりするのは、この「神のかたち」の一つだろうと思うのです。
だから、小さな子どもたちは「お絵かき」が大好きなのではないかと思います。でも、だんだんと年齢が上がってくると、図工が苦手という子が出てくるのです。それは、周りの評価がだんだんと気になってくるからではないでしょうか。
もし100%自由に作ることができたら、多分どの子も個性的な素晴らしい造形を見せてくれるのではないか・・・と思います。
つまっても大丈夫だよ!
話している子が自分の吃音をあまり気にしないのは、私がその子の話し方(言葉がつまってしまうこと)を気にせずに、注意したりせず聞いているから、話の内容に興味を持って、頷きながら、時には「へえ~」と感心したり「すごいね」と褒めたりしながら、共感的に聞いているからだろうと思います。(研修で学んだことを実践したのです。)
フレアースカート~愛されて育った子は・・~
せっちゃんは、休み時間などいつも私のそばにいて、いろいろ話したり、手伝ってくれたりしていた。先生大好き、担任大好きの子だった。私が担任だから大好きなのではなかったと思う。彼女はそのときそのときの担任の先生を大好きになるタイプの子だったのだと思う。出会ったのは低学年の時だったが、たぶんせっちゃんはその後も、学年が上がっても先生大好き(よっぽどのことが無い限り)で育っていったのではないだろうか。それは、先生だけでなく、友だちやその他関わりのある多くの人々を無理なく受け入れることができる、そんな性格のなのではないか、と思わせるかわいらしさ(性格の)を持った子だった。
きっとせっちゃんは、ご家族など身近な人から愛されて、大事にされて育ったのだと思う。愛されて育った子は、他の人も愛することが自然にできる、とよく言われるが、せっちゃんはそれが本当だろうと感じさせる子だった。せっちゃんのように、周りの人たちを優しく受け入れて、好きになる・・・そのことで多くの人に幸せを届けたことだろうと思う。しかし、それは、本人にも大きな幸せをもたらしたのではないだろうか。